塾を開いて5年。当時のブルカン塾には、第二次オイルショックなど、日本の経済状況を反映し、月謝や合宿費を捻出できないほど困窮した家庭の子供が多くいました。
しかし、そんな時にあっても「ブルカン塾」では厳しく催促したりはしませんでした。生徒が求めれば、いくらでも補習に応じ、無料で合宿に招待することもありました。「ウチは他所の塾とは違う」と虚勢を張っていたのです。
しかし、塾である以上、原資は月謝です。このままでは子供たちを無責任に放り出すことになります。スタッフの生活もあります。
塾を存続させるためにどうするか、皆で考えました。空いた時間があれば知恵を絞り、あらゆる手段を考えました。
そんな中、「九州ラーメンはどうだろう」と突拍子もないアイデアを出したのが下川です。
下川は東京生まれですが、小学校3年生の時に家庭の事情で熊本に移り住みました。そこで出会ったのが九州ラーメン。スープの色も麺の太さも、当時の東京で主流のラーメンとはまるで異なりましたが、下川はとても気に入り、毎日のように食べていたのでした。
あの味を東京で提供できたら、きっと繁盛するに違いない。
作り方こそ分かりませんでしたが、「思い描くラーメン像」は明確でした。
議論は熱がこもり、やがて結論に至ります。
「他にないラーメン店を我々でやろう」 そう皆で決断したのは 1984年の夏のことでした。
ラーメンの師匠は、長崎県平戸に住む野田利政さんという方を縁故を伝って探し出しました。野田さんは腕一本で旅館などを渡り歩く長崎卓袱(しっぽく)料理の板前で、昭和天皇に料理を献上したこともある方です。
しかし、「ブルカン塾」を続けながら指南を受けるためには、どうしても野田さんに上京していただく必要があります。
「もう歳だから東京なんて行けないよ」と渋る野田さんを下川はなんとか説得し、ご夫婦で上京していただきました。
自ら選んだ道とはいえ、まったく畑違いの挑戦です。素人が職人にゼロから教えを乞うのですから、容易ではありません。
秋葉原に場所を借り、修業の場としました。修業期間は1日に15~16時間。それが6週間に及びました。
関わった全員が無我夢中で辿り着きました。
下川が少年時代に親しんだ九州の味を再現し、出来あがったスープに「九州じゃんがら」と名づけました。
名前の由来は長崎の「平戸のジャンガラ」という伝統行事(※)です。
1984年11月28日、ついに「九州じゃんがら (現・秋葉原本店)」が開店の日を迎えました。
「ラーメンをやろう!」と決意した流れから、何より必要だったラーメンの師匠は、縁故を辿ると案外すぐに見つかりました。
その方は、野田利政さんという長崎卓袱(しっぽく)料理の料理人でした。
野田さんは腕一本で旅館などを渡り歩き、昭和天皇に料理を提供したこともある腕のいい板前さんです。
しかし、「ブルカン塾」を続けながらラーメンの修業をするために、野田さんには長崎の平戸から東京に来ていただく必要があります。
「もう歳だから東京なんて行けないよ」と渋る野田さんをなんとか説得し、ご夫婦で上京していただきました。
そして秋葉原に、元はスナックだった店を借り、修業の場としました。修業期間は1日に15~16時間。それが6週間に及びました。
自ら選んだ道とはいえ、まったく畑違いの挑戦です。素人が職人に教えを乞うのですから、容易な道のりではありませんでした。それでもなんとか修業を終えました。野田さんから修行を乗り越えた褒美として、卓袱料理の角煮のレシピが授けられました。
関わった全員が無我夢中で辿り着きました。
決断した日から開店までの期間はわずか3ヶ月ほどでした。
短期間で店を立ち上げられたことに実感を持って驚くのは、ずっと後になってからでした。
少年時代に毎日のように食べた九州の味を再現し、出来あがったスープに「九州じゃんがら」と名づけました。
名前の由来は長崎の「平戸のジャンガラ」という伝統行事(※)です。
1984年11月28日、ついに「九州じゃんがら 神田本店(現・秋葉原本店)」が開店しました。
※「平戸のジャンガラ」は国指定の重要無形民族文化財です。
